イメージフェノメナンについて


テーマとしての映像現象(イメージフェノメナン)

ソヴィエト・ロシアの映画監督エイゼンシュテインがその論文集『エイゼンシュテイン全集1〜10』の中で、映像だけでなく、絵画や建築、音楽についても問い続けたのは、それらの分野を束ねた総合芸術を目指した訳ではなく、映像という形式=《映像》の独自性を探求することが目的でした。エイゼンシュテインは、その晩年の論文「ピラネージ、または形式の流動性」において、《映像》の特性は、その分野を他の表現ジャンルから境界付けている形式そのものが時間とともに流動していることだと暗示しています。言い換えると、《映像》を支えている形式そのものが現象であり、また、その現象を見詰めた時にのみ映像という形式が立ち現れることになります。私たちはこの映像現象を《イメージ・フェノメナン》と名付けています。 映像学科の3年次の授業「イメージフェノメナン」においては映像現象を志向するダイレクトな映像制作を試みていますが、ドラマやアニメーション、メディア・アート等においても、それが《映像》である限り、映像現象がかなりの比重をもつ時がくるでしょう。 そして《映像》がもっと成熟すれば、映像学科のゼミも映像の諸ジャンルによって選択されるのではなく、テーマによって各々の制作に関係付けられるでしょう。 その時の私たちのテーマが《イメージフェノメナン》です。

武蔵野美術大学映像学科

主任教授

板屋リョク

自然現象と対等であることは、

映像でしか表せない現象であること。

 映像にしか実現できないことが沢山あります。テレビ映像は私たちの世界に起きた出来事や事象を記録し、 映画は夢のような物語や伝説を描き、アニメーションは動かない絵や人形に命を与えきました。 これらの映像は情報性と物語性を時間にかえて、テレビや映画館でみなさんに夢と現実を伝えて来ました。 しかし、映像の未来はこれだけにとどまらないでしょう。映像技術は急激に進歩しています。 上映装置の大画面化、薄型化、高輝度化へと開発が進む今後、映像は表現の可能性をますます拡大し、 公共建築空間、商業空間、住空間へと進出することになります。その時、映像は新たな視点でつくられたものでなければならないと私たちは考えています。 それが、「イメージフェノメナン=現象映像」です。
 いろいろな自然現象が人々の気持ちを揺り動かします。簡単にいうと、それを映像で造り出すものですが、自然現象をまねるものではありません。自然を模倣しながらも全く別のものをつくること、我々が身を置く環境に無いもの、存在しないものを現象として映像で出現させる表現なのです。  イメージフェノメナンは自然と対等であることを目指しています。対等であることの条件は自然とは全く別ものであることなのです。重要なことは、映像でしか表せない現象だということです。

武蔵野美術大学映像学科

教授

篠原規行

自律する映像

映像表現には、ドラマ、ドキュメンタリーなどと呼ばれる様々なジャンルが存在するが、それらジャンルが映像の可能性全てを表すものではない。
先人の開いたジャンルという名の枠組に入るのももちろん構わないが、ジャンルの外にも空間はあるということには気づいていなければならない。パイオニアが荒れ地を拓かない限り、そもそもジャンルなど存在しないのだから。
イメージフェノメナンの授業は、映像の可能性を広げるための思考回路を持つというところから始まる。実写ベースでの抽象映像表現は、3年生ですら明らかに戸惑いを覚えるようだ。今までに経験したことのないことをやれと言われるのだから、無理も無いだろう。無意識に、しかし間違いなく自分が撮影した素材から4人の講師陣によってその可能性が提示されると、ぼんやりと自分がカメラを向けた理由がみえてくる。再撮影や編集などをしながらさらに議論を進めると、道ではなく着陸点が見えるようになる。そこまで来て、初めて自覚を持って完成まで進むことができるようになる。 本人の明確な問題意識からの制作ではなく、無意識からの作品制作というプロセスに、実はこの授業の特異性と強烈な優位性がある。通常は問題意識の持ち方は教える事ができないが、この授業ではそれがプロセスとして無理なく取り込まれているのだ。このプロセスを経験し学習する事によって、無意識から作品化するための一通りの組み立て方を覚えることができる。しかも他の誰でもなく自分から湧き出たものだ。このプロセスを踏襲した、レベルの高い作品が、授業後も進級制作や卒業制作で数多く生み出されている。 写実中心だった絵画が写真技術の登場と台頭によって危機を迎え、そのことが逆に写実性という束縛から絵画を解放して自律を得たように、CGによって人間が思い描くことができるどんな光景でも作れるようになった今、映像も映像の束縛から解放されるはずだ。 そこには光だけが存在し、現象だけが問題となっていく。それはイメージの純化に他ならない。

武蔵野美術大学映像学科

非常勤講師

橋本典久